大海原

浮き輪は必要ない。泳げる。普通に。多分短めのトライアスロンなら出られるくらいには泳げる。と思う。

ある年末年始に、新婚旅行でも有名な国の島へ行った。我が家は「日本人があまり行かないところ」へ旅行に行くのが好きだ。滞在中、その島も日本人は我が家以外1組のご夫婦がいただけだった。

島自体が楽園なので、海辺でシュノーケリングするだけでウミガメにも会えるし、十二分に満喫できるのだが、観光地なのでお決まりのいろんなツアーがある。その中で目に留まったのが「マンタツアー」である。沖に出てマンタを見るというものだ。免責事項に「万が一マンタが見られなくても返金はしない」と書かれている。ツアーの代金がいくらだったか全く覚えていないが、かなりいい値段だったのは間違いなく、4人分の代金となれば結構なもの。まぁでもマンタなんてこういうところに来なければ見られないし、申し込むことにした。

船に乗って大海原へと出発。15人くらいの人たちがいたと思う。日本人は私たちだけだった。ドンドンと沖へ向かっていく間、船長はマンタ探査機らしきものと、無線とでなにやら他の船とも交信しているようだった。その日は前夜雨が降ったせいか波が少し高く、マンタに出会うに良好なコンディションではないようだった。船長は我々に再確認するように、例の「免責事項」を口にしつつ、必死にマンタを探してくれていた。絶対に見せようという気迫が感じられた。

幸運なことに。マンタはいた。船の上からも見える。想像より大きい。自由で品がある。優雅だ。船長からシュノーケルセットが手渡された。私はシュノーケルセットを使ったことがなかったので、大丈夫かと少し不安になり、夫にそう伝えた。夫は私に使い方を説明し、使った方が良いと勧めた。夫の説明は驚くほど簡単だったので、不安ではあったが簡単に使えるのだろうなと思った。船長にライフジャケットも渡されたが、ライフジャケットを着ると潜れなくなるので、子供たちだけライフジャケットを着て、大人二人はシュノーケルセットだけを付けた。マンタには触れないこと、追いかけないことなど注意事項を告げられ、海に入ってマンタを見るよう順番に船の淵に座らせられた。次の瞬間、船の淵に座っている客を海に突き落とした。マンタが近づいてくるタイミングで。背中をドンと押して突き落とすのだ。船長が。海に入るタイミングはもはや船長しかわからないので、心の準備もままならないうちに、我々は海に落とされるのだ。背中を触るのではない。押すのだ。ふいにドボーンと。船長の絶大なる使命感の下で、もはやマンタとのデートは我々の義務と化した。「権利」ではなく、「義務」である。

我々の番が来た。夫は次女を背中に、長女を左手に、首から水中カメラを提げて、突き落とされることなく悠々と入水した。私もそれに続いた。しばらくするとマンタが現れ、我々は並行してマンタと一緒に泳いでいた。が、その日は波が少し高かった。何の前触れもなく私の胃の中には大量の海水が入ってきた。シュノーケルから入ってくるのだ。夫から聞いた使い方を試してみるが、何度も大量の海水をゴクゴクと飲むだけである。海水をビールのごとく飲んだのは初めてだった。夫たちは優雅に次のマンタとともに私の前を通過して行き、やがて私の視界から消えていった。

溺れる。と思った。人生で初めて感じた「生命の危機」。見渡せば、船は遥か遠く向こうにあり、自力で泳げる距離には思えないし、そもそも潮に流されているではないか。このままではマンタではなく鮫に遭遇してしまう。船と私の間には同じツアーの香港人中年男性が溺れかけている。なんだこのツアーは。私はシュノーケルを取り外し、心の中で「何が簡単だよ」と夫を呪いながら、船に向かって自力で泳いだ。しばらくすると船がおじさんに向かって動き始めた。おじさんはあのオレンジ色の浮き輪を投げてもらい九死に一生を得た。私は何とか自力で船にたどり着き夫に言った。「嘘つき」と。夫の言葉を簡単に信じた自分を後悔した。

というのが、私の記憶なのだが、夫曰く、夫は子供たちを船に戻した後、遠くで遭難しかけている私を助けに来たらしい。全く記憶にない。記憶にあるのはシンプルすぎるシュノーケルの説明だけだ。思い返せば、ヤツは常に言葉が足りない。そもそも口数が少ないのだが、常々言葉も足りないのである。楽園効果ですっかり失念していた。

信じるな 異国のツアーと 我が夫

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