もう時効?

Photo by u5468 u5eb7 on Pexels.com

我が家の二人の子供はそれぞれ違う公立中学校に通った。もう卒業して時効だと思うので、ちょっとびっくりした話を。

次女が中1の時、学校の英語の先生が7-8回変わった。確かに長女の中学でも先生が休職して教科担当が変わるという通知は何度かもらった記憶はあるし、中学校教員の「激務」はニュースでも度々取り上げられているので、いろいろと事情があるのだろう。しかし、1年生の1・2学期間で7-8回って。その中には次の正式な「担当教員」が決まるまでの暫定的な「中継ぎ先生」もカウントしているが、それにしても多すぎる。我が家は帰国子女で、インターに通わせていたので英語は困らないのだが、小学校から中学校に上がって一番大事な教科が数学と英語だと思う。ついていけなくなるとすこぶる困る教科だ。受験にも絶対的に必要な教科だし。勉強に対する興味は結構先生に左右される。好きな教科もつまらない授業だと吸収率は低下するし、好きだったのに嫌いになることも。逆もしかり。苦手な教科でも授業が面白いと頑張れたり、興味を持ったりする。

授業参観のときのこと。英語だった。教壇に立った先生は自分がこのクラスの正式な英語担当ではない「中継ぎ」だと冒頭に自己紹介で言った。一般企業のサラリーマンにはちょっと考えられない自己紹介なのだが、先生社会も色々あるだろうし、授業参観日の直前で前任が休職してしまったので、「中継ぎ先生」も大変だったのだろう。少なくともその先生の問題ではなく、学校の問題だ。普段は2・3年生を教えていると言っていた。

そして次の瞬間、「〇〇(うちの子)、前回どこまでどういう授業をした?」と聞いた。

さらにびっくり。一般企業で働くサラリーマンには理解しがたい。引き継ぎすらまともになされていないのか。生徒に確認するのは良いとしても、せめて授業前にすれば、、、などと思いながら私は我が子のほぼ真後ろくらいのところに立っていて、彼女がまともに回答できるかが気になった。

我が子が意外にも、わかりやすく要点をまとめて前回の授業の内容を先生に伝えたので、少しホッとした。

その先生の授業は緩急があって上手だった。このままこの先生にお願いできたらいいのに、と多分そこにいた親たちは思っていただろうというくらい、わかりやすい授業だった。

1年生の別の時期にまた授業参観に行った。行ったらまさかの「自習」だった。やけに静かでその教室だけ親がいないと思ったら。私は自分が海外に行っていた8年の間に日本の教育は様変わりして、授業参観に「自習」はスタンダードになったのかと、その場で友人5-6人に「授業参観に来たら自習なんだけれど」「今どき、そんなもの?」と確かめてしまった。

その時期、1年生は10日後くらいに校外学習に行くことになっていた。校長でも副校長でも手の空いている先生が来て、校外学習を題材に何かグループワークさせればいいではないか、と思ってしまった。班長を集めて進捗を聞いて、課題を2.3個考えて、各グループで討論・発表、余った時間はしおり作りとか調べ物の時間にするとか、やりようがある。学校なのだから「教えるプロ集団」ではなかろうか。と、ついつい思ってしまった。

これらは1年の時の出来事だが、2年、3年とまだまだある。長女の時はそういうアクシデントというかトラブルみたいなものはほとんど記憶にない。次女がそういうものを引き寄せるのか?うちの次女の問題か?www

Photo by Element5 Digital on Pexels.com

Come back 8歳の頃の長女

A国から帰国し、B国へ行くまで11か月ほど日本で過ごした。夫は日本の別の場所で単身赴任だった。私はそんなに早くすぐにまた海外に行くとも思っていなかったし、なんと言っても働きたかったので就職活動をして、次女は保育園に入れたので良かったのだが、長女は学童へは行かなかった。

彼女はクラブのない日に学校から帰ると、順番はわからないが結構なタスクをこなしていた。

  • おやつを食べる
  • 遊びに行く(天気が良ければ外に)
  • 洗濯物を取り込んで畳む
  • 風呂掃除をする
  • 宿題をする
  • 米をとぐ

そしてさらにルールを設けていた。

  1. 親(私)の許可なくして、友達の家に行ってはいけない
  2. 親のいない時に友達を家に入れてはいけない
  3. TV・DVDは1日30分まで

近くに図書館と児童館があったので、月曜日でなければそこで遊んだりすることも出来、それなりに過ごしていたのだろう。だが、「TV・DVD30分」をしっかりと守っていた彼女は日が暮れるのが早くなると、ラジカセが欲しいと言った。音が欲しいと。何とも真面目な子だった。誰の子だろう。と同時に、音もなく、淋しい思いをさせていたことを私は反省した。

私は毎日保育園に次女を迎えに行ってから帰宅するのだが、長女は「保育園を出るときに連絡を入れて」と言う。そのタイミングで風呂を沸かすらしい。連絡を入れ忘れると「何で連絡をくれなかったの!」と叱られる。新婚夫婦のようなやりとりだ。帰ると、風呂は沸き、洗濯物は畳んであり、米はといである。本当に助かる。できた子だ。

淋しい思いをさせながらも、なんとか親子3人というか、長女の協力のもと働いていたのだが、冬になって忘れていた日本の学校のシステムが到来した。そう「学級閉鎖」だ。3日間だったか、1週間だったかもう忘れたが、働く親にとっては悪魔のようなこのシステム。バリバリ健康な子供が学校に行けない。仕事も休めない。おそらく時間を持て余すであろう彼女に私は「火は絶対に使ってはいけない」と言い、近所の八百屋への買い物と、夕食の下ごしらえを頼んだ。

それでも数日は学校へ行けないので、相当時間が余っていたのだろう。家に帰ると、「ママ、ママ、見て」という。ピカピカになっていた。台所と風呂場の排水溝が。「大変だったんだから」と。驚くほどきれいになっていたのだが、それ以上に排水溝をきれいにしようと思った彼女にびっくりした。なんて気の利く子なのだろう。

この頃を境に「良い子だったピーク」は過ぎ、手を抜くことも、適当にごまかすことも、まぁ当たり前だが色々と覚えていき、もうあの頃の姿はないと言って過言ではない。いつまでも続くわけがない。

私のことを「なんでも片付ける、なんでも捨てる、細かすぎる」という娘たち。長女はもう家を出て行ったので、自分の基準の「きれい」な生活をしていたり、していなかったり。そして、実家に帰ってくれば「ゲストモード」。もう二度と戻ってこないかつての日々を振り返り、小3の頃の長女を懐かしむ。

Come back 6歳の頃の長女

しっかりちゃっかりの次女は、2歳前に既に友人母から「○○ちゃんは女優だね」と言われるような子だった。良くも悪くも空気を読んで場を和ませたり、笑わせたり、自分の意図する方向に周りを動かしたりする。

我が家は普段から良く歩く。移動手段のファーストチョイスは自転車か徒歩だ。旅先には自転車はあまりないので、とにかく歩く。しっかり歩けるようになる2歳くらいから歩かせる。抱っこはしない。歩け。

そんな旅先で次女は「歩けない」と訴えることがある。私と二人の時は絶対に言わない。知っているからだ。無駄であることを。しかしながら、まぁ大人二人と3つ違いの姉についていっているので疲れるだろう。だが、そこで抱っこしてはヤツの思うつぼなので、「××に着いたらおやつにしようか」と言って歩かせる。たいていこれでどうにかなるのだが、たまに粘る。彼女は知っているのだ。よぉーく知っているのだ。姉が「じゃあ、お姉ちゃんがおんぶしてあげる」と言ってくれるのを。長女は5歳の頃から、次女をおぶった。そんな長い距離ではないのだが、次女は非常に満足する。親ばかだが、長女も次女もかわいらしい。

長女は次女が生まれた瞬間から、どこで知ったのか自分のことを「お姉ちゃん」と呼び(親は呼ばないのに)、泣けば話しかけ、あやし、寝かしつけ、ご飯を食べさせ、泳ぎを教え、自転車を教え、字を教えた。子供たちは8年海外にいてインターに通っていたので、私は彼女達に日記を書かせていた。正確には長女に。その長女は次女に日記を書かせ、それを先生と化し添削し、文章のコツを伝授した。

次女の⅔は長女が育てたと言って過言ではない。次女は長女ほどではないが保育園と幼稚園で4回、小学校3回と転校している。だが、初めてのところにはたいて姉がいた。言葉が通じない国でもなんでも、姉が先陣を切って通っているので、むしろ新しい場所は憧れだし、見知った姉の友達もいるので、人見知りしないわけではないのにどこでも上手くやっていけている。帰国後、姉がいない学校でもうまく出来ているから、本人の性格もおおいにあると思うが、その礎を築いたのは長女であろう。

ひどい喧嘩をするときも沢山あるし、姉妹ならではの「貸し借り」で揉めることもあるのだが、長女が独り暮らししてからもショッピングや映画、お泊りと仲が良い。驚くくらい。

もう、長女が次女の面倒を見ることはないのだが、母の最後の?お願いだ。再来年、妹と二人で暮らしてくれないか。グータラ妹を立て直してくれ。Come back6歳の長女。

Come back 2歳の頃の長女

第一子に妹や弟が生まれた場合、それまで一人っ子で親の愛情を独り占めしてきた長子は親の関心を引くために、大きく3つのタイプになると思う。

  1. 駄々をこねる、赤ちゃん返りをするなど問題行動をして親を困らせる(親から「叱られる」は最もたる愛情表現だもんね)
  2. 親の役に立つようやたら良い子になる(言いつけを守る、お手伝いを良くするなど、褒められて親の愛情を確かめる)
  3. 上記二つの行動を交互に繰り返す

私は第二子で生まれたときから兄弟がいて、上より先に18歳で家を出ていることもあり、一人っ子経験がないのでわからないが、母親が友人の赤ちゃんを抱っこしているだけで、不機嫌になる子もいるくらいだから、親の存在って子供にとって絶対的なのだろう。

我が家の長女は典型的な「2」のタイプだった。もともと自立心が多分強い方で、着替えも、靴下や靴を履くのも、階段を上るのも、なんでも「自分」でやりたがるタイプであった。

明らかに自主的な「お手伝い」をしたのが2歳半の時である。私が妊娠5か月半くらいの時だ。以前「ワンオペ」で書いたが、次女の妊娠初期に腹腔鏡手術を受け、しばらく入院していたことがある。入院して体力が落ちたのと、第一子の妊娠時と違ってつわりがひどかろうが、身体がつらかろうが、長女の生活と仕事が最優先で、好きな時に休めるわけもなく、とにかく毎日疲れ切っていた。その時おなかの調子も悪く、薬も飲めずクタクタだった。その頃の夫は終電もしくは始発帰り、夜勤休日出勤が当たり前の生活をしていたので、金曜日の夜にはリクライニングチェアの上が畳んでいない洗濯物の山となっていたのである。

土曜日の朝、その日はママ友達が第二子妊娠中のトラブルのため入院中で、車で友人のお見舞いに行った後、夜勤明けの夫をピックアップして、大学のOB会(サッカー)に家族3人で行く予定だった。私はお腹の不調と格闘しながら、朝から朝食と昼のピクニック用のお弁当を作っており、くだんの「洗濯物の山」は見て見ぬふりをしていた。

朝食の後片付けと弁当の支度をしている途中、ふとリビングに目をやると洗濯の山が明らかに小さくなっている。次に長女を探して和室を見ると、長女が洗濯物を畳んで、線路のように並べている。「これは〇〇(長女の名前)のズボン」「これは保育園のタオル」「これはママのシャツ」とおしゃべりをしながら一枚ずつ、線路のようにどこまでも順番に並べている。

17年も前のことをこんなに鮮明に覚えているほど、ものすごく感動した。私が疲れていることを知っていて気遣って「お手伝い」をしてくれている。本当に嬉しかった。2歳半の子供が畳んでいるので、「畳んだ」とは言えないのだろうが、私はあえて畳みなおすことはせずに、「〇〇(長女)すごいねぇ~。上手に畳めたね。ありがとう、ママ助かっちゃう。」と言って、崩れないようにして、そっと箪笥にしまった。

「ありがとう、ママ助かっちゃう。」は魔法の言葉だった。本当に良くお手伝いをしてくれた。過去形だけれど。今や実家に帰ってくると「ゲストだから」とわけわからないことを言う20歳になっていやがる。成長とはそういうものだ。いつまでもピュアなわけはない。

あぁ~、可愛かったなぁ

魔女の宅急便式?子育て

写真2枚:長女のある日のご飯      机片付けてby母

児童文学は大人になってから読んだ方が面白い、と思うこと自体がもう子供には戻れないということなのだろうが、「魔女の宅急便」の原作が好きだ。

夫と私は大学から独り暮らしをし、大学時代が最高に楽しかったし、独り暮らしで精神的に得るものが多かったので、子供は大学生になったら家を出そうと話していた。長女が2歳くらいの時だ。できれば地方の国立大学が良いけれども(経済的に)、都内で実家から通える学校でも出そうと決めていた。よって、長女が2歳くらいの頃から、「独り暮らしするには何でも自分で出来ないと」と言って、いろんなことをやらせて育てて来た。

次女も生まれて数年経ち、すっかり良くお手伝いをする子に育っていたある日「魔女の宅急便」の原作と出会った。それからは呪文のように「キキみたいに13歳になったら独り立ちするんだよ」「料理も掃除も出来ないと、キキになれないよ」と二人の娘に言い聞かせ、生活に必要な知識と技能を叩き込んだ。「魔女の宅急便」を読み聞かせる度に、キキを称賛し崇め、失敗したときも、辛いときも、嬉しいときも、悲しいときも人との関係を大切に工夫して生きていくキキの物語を子供たちの将来と重ね、いつのまにか我が家のバイブルとなった。

この「魔女の宅急便」の良いところは、シリーズになっていて、キキの成長に寄り添えるところだ。子供たちはそれぞれ5.6歳くらいからは、自分で読むようになり、海外で暮らしていたこともあり、何度も繰り返し読んだ本だ。

三つ子の魂とは凄いもので、小さい頃は「ママと離れるのはさみしい」くらいのことは言っていたはずなのに、ある年齢から「独り立ち」は長女の「使命」となり、中学生頃には「権利」となった。「独り立ち=自由」みたいな。高校生になると、友達に「大学は独り暮らしするんだぁ~」と言っていたらしく、友人お母さん達に「女の子なのに心配じゃないか」と良く聞かれた。

心配かどうか、と言えば、心配がないとは言わないが、たいして心配ではない。自分が大学で独り暮らしをしてすぐに、家に泥棒が入ったことがあったり、下着泥棒にもあったりと独り暮らしの8年間で結構な経験をしているので、彼女の家は学校や駅までの道順や立地、周辺住民など色んなことを考慮して決めたし、そもそも心配してもしょうがない。自立させるために出すのだから。自分で対処するだろうし、不安だったら誰かに相談するだろう。

彼女は去年の独り暮らしスタートから十二分に独り暮らし生活を満喫し、小さな城で収納ややりくりを工夫しながら暮らしている。とここまで読むとさぞ順調な子育てのように思えるかもしれないが、当たり前だがそんなわけがない。何度となく取っ組み合いのバトルを繰り広げてきた。親の思うようになんてなるわけがないし、思うようになっても困る。彼女の人生なのだから。彼女が考えて選んでいくしかない。

もう帰ってきてはならぬと育てているので、卒業後今度はきちんと経済的にも自立して欲しい。が、目下のところの問題はグータラ次女である。人がいるから甘えるし頼るわけだから、さっさと家を出すしかない。あと1年半。22年ぶりの「私」の独り暮らし実現となるか。

鉄分不足との戦い ~鉄瓶・鉄のフライパン~

日本の学校はやたらと「全校集会」が多い。体育館やら、校庭やら、やたら立たされる。割と高い頻度で立ち眩みを起こしていた。座っていて急に立ち上がると、立った瞬間真っ白になってグルグルと気持ち悪い。これは未だにそうだ。血圧が低いせいもあるのだろう。上は90もいかないこともしばしば。なので、献血をしようと思ってもできないことは多々あったし、そんなに「血が濃い」方ではない程度には思っていた。

貧血気味だとハッキリわかったのが、妊娠してからだ。「わかった」というか「意識」したのが。どうやらそれまで健康診断で引っ掛かりはしなかったが、ヘモグロビン値が常にギリギリだったらしい(というか、きちんと見ていない)。そして妊娠して胎児に栄養が行くので、値が低くなった。

病院で「鉄剤」というものをもらい、大好きなコーヒーや緑茶も制限された。(というか、むしろ飲むな)コーヒーはDecafeというものがあるし、緑茶ではなくてほうじ茶や番茶で十分だ。が、この「鉄剤」を飲むと気分が悪くなる。医師から「胃が重くなって気持ち悪く人もいる」と説明は受けていたが、逆にならない人を知りたいくらい気持ち悪い。妊娠初期のつわりもあって、四六時中気持ちが悪い。仕事も行かないといけないのに。

しかしながら、この「鉄剤」には人を勉強させる絶大なる効果があり(だって服用したくないんだもん)、鉄剤でヘモグロビン値を上げるよりも、食物からの鉄分摂取する知識を増やしてくれた。鉄分の多い食材同士(ヘム鉄・非ヘム鉄)の食べ合わせや、Vitamin C, Dとの組み合わせなど、とにかく工夫した。食品、食材の知識と同時に、「鉄瓶・鉄のフライパン」を使うことにした。実は大学の時から「鉄のフライパン」は持っていたのだが、重いし、取り扱いがいまいち上手くなくて、ずっとテフロンだった。でも、これを機に鉄瓶で麦茶や番茶を沸かし、鉄のフライパンで料理するようになった。今はうちの子供たちも鉄のフライパンでホットケーキも、卵焼きも焼ける。やれば出来る。

すごい。効果てきめん。妊娠初期<後期<母乳時期と鉄分は母体から胎児・乳児に失われていくのだが、あれこれやったおかげで、妊娠中期以降「鉄剤」とお別れできた。

そんなある日だ。健康診断に行った夫が血液を抜かれて倒れた。「血」に弱いのと彼自身が男性なのにヘモグロビン値が低いとのこと。遺伝らしい。となると、必然的に子供もヘモグロビン値が低いと予想される。なので、授乳終了後も、鉄瓶と鉄のフライパンは使い続け、妊娠・授乳期ほどではないが鉄分の多い食材を気に掛ける生活を続けた。

そして第二子を妊娠した。あの胃がズンっと重くなる感覚(粘土が胃の中に詰まっている感じ)を思い出し、少し憂鬱になった。第一子と同じタイミングの妊娠初期で血液検査をしたが、ヘモグロビン値は決して高くはないが、鉄剤を必要とすることなく、セーフだった。私は日ごろ飲む水分の量が多く、夏だと3Lくらいのお茶を飲む。その中にコーヒーも1Lくらい含まれるのだが、鉄瓶のお茶や鉄のフライパンのおかげではないかと思っている。実際、結婚前の健康診断のヘモグロビン値より「鉄調理器具」を使ってからの方が血液検査の結果は良好だ。

独り暮らしの夫も上の子も当然のように「鉄のフライパン」を使っている。上の子の友達には重いからと不評らしいが、健康にはとても良い。

もう20年以上愛用しているフライパンと鉄瓶だ。テフロンを買い替えるよりコスパも良いし、手入れも洗ってしっかり乾かすだけ(我が家は)。貧血で悩む人。スポーツをやる人。お試しあれ。

なくても良い家電 ないと困る家電

もう10年以上、炊飯器と電子レンジ(オーブン)がない。18年前に掃除機はなくなり、ある事情で9年前くらいにルンバが来たが、この7年ルンバは時々使うくらいである。あれば便利な様々な家電。でもなければないで、すっきりと快適に過ごせる。炊飯器、電子レンジ、掃除機。どれか手放してみるのも悪くない。

これらの家電がない一番のメリットはスペースだと思う。炊飯器と電子レンジがないと台所はスッキリとするし、掃除機も収納スペースがいらない。

<炊飯器>

サイズ:米を炊くのに土鍋で大小5つあり、正直こんなになくても良いのだが、重ねて収納でき邪魔にならず、米の量や用途によって(鍋、おでん、炊き込みご飯、ちらし寿司など)使い分けている。(でも、3つくらいに減らしてもいいとは思う)米は常に冷蔵庫に水に浸して冷やしてあり、食べたい分だけ炊いて食べきるのが基本だ。食べきれなかったら、だいたい雑炊かチャーハンにする。

時間短縮:炊きあがる時間も米の量にもよるが、2~3合くらいなら15分~20分程度だ。炊飯器の½~⅔くらいの時間だと思う。炊き込みご飯やちらし寿司も土鍋のまま食卓におくと、ちょっと華やかになる。洗い物も炊飯器のパーツを細かく洗ったり掃除したりする必要がなく、土鍋を丸ごと洗えばいいので案外楽だ。

なんといっても、米がつやつやして本当に美味しい。わざとおこげを作ってもいい。

<電子レンジ>

あれば絶対に重宝するし、電子レンジを使わなくなる前は、これでもか!というほど愛用していた。

野菜:ブロッコリー、インゲン、人参などのお弁当野菜は朝食の味噌汁を作る工程で味噌を入れる前に入れてゆでてしまう。出汁のきいた汁で茹でるので美味しい。

温めなおし:直火で行うか、蒸し器をつかう。これは「レンジって便利だな」と一番思うところ。でも、食べきってしまえば良いし、直火で温めればいいので、さほど苦にならない。

オーブン機能:魚焼きグリルとうちにはドーム型の「焼き芋焼き器」があり、その二つでケーキもピザもオーブン料理もでき、仕上がりもとてもふっくらと出来るので満足している。

<掃除機>

クイックルワイパー、掃きとちりとりで十分。クイックルワイパーのウェットタイプだとか、畳み用だとかいろいろあるし、音も響かないので、気になったときに気になったところを常にきれいにできて、気持ち的にもすっきりするので満足。

ルンバは、以前とある国で280平米の家に住んでいて、お手伝いさんに来てもらえばいいのだが、あまり気持ちが進まず、ルンバを「Smarty」と名付けてお手伝いをしてもらった。今でもTV台の下あたりの目のつかないところに収納していて、時々外出しているときにお手伝いをしてもらう。細かいほこりがとれるので、たまに使う。サイズがコンパクトなのが良いが、掃除機を掃除するのがあまり好きじゃなく、「クイックルワイパー・掃き・ちりとり」で十分かなぁ~と思っている。

これだけ物があふれていて、技術も進化していくので、「あれば重宝する」ものは沢山あるだろう。私は物が増えていくのが嫌なので、あるもので工夫してなるべく物を多く持たないようにしている。今は家電を捨てるのにもお金がかかるし。

独り暮らしの夫も、上の子も、これらの家電は持っていない。なくても十分やっている。

<ないと困る家電:冷蔵庫と洗濯機>

大学で独り暮らをはじめたとき、試しに1-2週間くらい洗濯機がないないせいか生活をした。一人分くらいの衣服やタオル・シーツは浴槽で手洗いして何とかなるのだが、困るのが脱水。洗濯機は文明の利器。 そして説明するまでもなく、冷蔵庫も。ホテルのあの小さいサイズでもいいからないと困る。ビールとか、ビールとか、ビールとか。

電気を自家発電して、薪で火を焚いて生活している人もいる。物を減らしたり、文明の利器にお世話にならないことって、きっと考え方を少し変えることなのだろう。携帯がなくても生きていけるもんな、実際。だってなかったもん。25年前は。どれか手放してみるのも悪くない。

左:よく使う3つの土鍋。一番小さいのは100円ショップのもの。冬になると大きい土鍋を二つ使ったりする。(炊き込みご飯(ちらし寿司)とおでん(煮物)というコンビ)

右:5年越しで見つけた焼きイモ焼き器。上の子の家へ。これ便利。

理想の足

小柄で「普通」の私は、背が高くて手足が長くて、すらっとした長身の女性が好きだ。それが運動系の人ならなおさら。某TV局でキャスターをしている、元バドミントンオリンピック選手は超理想。私よりも10歳は上なのに、いまだにあの美貌と手足が長くて(小顔で)バランスが良い。あぁ、あんなバドミントン選手のような美しい足になりたい。

バスケ部だったからと言い訳をしているが、バスケットボールをしてから下半身がしっかりとしている。(ほっそりとしている人もいるので、元の体質なのだろうが)なので、10代の頃から筋肉のバランスの良い「細い足」に憧れていた。手足の長さは変えられないけれども、せめて「細い足」を、と。

それが実現?したのが、「ランニングと私」でも記載したように、某東南アジアの国で毎日約10㎞走ってからだ。30半ばにして、二の腕も細くなり、産後の気になっていたお尻の下の肉もなくなった。その後、友人に誘われてフットサルをすることになった。女子のチームで、体幹トレーニングも柔軟もやるようになり、当時体脂肪率13%‐15%くらいだった。フルマラソンを目指していたので、不要な脂肪が自然と落ちていった。30後半にして「理想の足」に近づいた。

だったはずなのだが、その異国で中学生サッカー女子との運命の出会いをきっかけにサッカーを始め、私の憧れは「細い足」ではなく「蹴れる足」に変わった。

サッカーにドンドンのめりこんでいき、男性の7人制のサッカーにも参加するようになり、フットサルと違って、ある程度の飛距離を出さないといけないので、夫に相談したら「脛骨筋(脛の筋肉)」がついてきたら良いと。(まぁどのみち、男性に敵うことはないのだけれども)

お荷物になりたくない、結果を出したい、もっと上手になりたい。小学生男子のように走り込み、柔軟、体幹、ボールの基礎練習。家事・育児・仕事の合間を縫って、出来る限りトレーニングをした。

そんなある日、フットサル仲間の友人に「〇〇さん(私)足太くなりましたね」と言われた。「本当???」と飛び上がるほど嬉しかった。南国でショートパンツを履く機会が多かったのだが、自分の筋肉質な足に満足した。

あれ?私の理想の足はどこ???「足が太くなった」と言われて喜ぶ日が自分に来るなんて、夢にも思わなかった。

でもやっぱり手足の長い長身女性は私の永遠の憧れ☆

旬の魚って美味しい!!!(飛魚・白エビ)

自分で魚を釣って食べるなんて羨ましい。つい先日、飛魚に舌鼓していたときに「飛魚を釣る」ブログを読んだ。

7月末にオープンした近所のスーパーに飛魚が並んだ。大好物だ。近年私の近所ではあまりお目にかからなかったのでとても久しぶり。残り一尾。あの飛魚のかわいいくりくりとした目は輝いている。もちろんカゴの中へ。

20年前、産休・育休中に毎日数時間散歩をしていて、かなりの確率で飛魚に遭遇し良く食べた。魚って、その年の漁獲量とか、日によって品ぞろえが違うので、たまたま私が飛魚を見かけなかっただけなのかもしれないのだが、とにかく久しぶりに食べた飛魚は最高だった。飛んでいるせいか?鱗はごつい。鯛と変わらないくらいだと思う。飛んだり、潜ったりだからか、透明感のある白身でプリプリしている。とても美味である。あらは味噌汁に。淡泊なのだが、運動量があるからか、身が締まって美味しい。私好みである。お酒が進む。

釣ったものが食べられるなんてすごい。魚は捌けるけれども、釣りは・・・小さい頃に湖でやった写真がある程度だ。乗り物酔いもするので出来る気がしない。人様のブログを読んで釣っている気分に浸りながら、プリプリの飛魚と日本酒を楽しんだ。

出張で富山に行ったことがある。想像以上の水の美味しさ、魚の種類の豊富さと美味しさに感動して帰ってきたのだが、8月の終わりごろから前述のスーパーに白エビが並びだした。白エビは富山の寿司屋か、白エビせんべいでしか食べたことがない。お寿司屋さんのようにあの3-4㎝のエビの殻を剥くのは正直めんどうだった。かき揚げも美味しいけれども、「生」で食すのが好きな私はちょっともったいないと思い、こういう時は文明の利器。ググるに限る。

「水洗いをして、塩で食べる」と書いてあった。頭と胴を外して、頭のみそを吸って、殻を食べないように胴体の身を吸う。チュチュっと。本当?と少々疑ったが、びっくりするくらいに美味しい。むしろ剥かない方がいい。もったいない。とろろ昆布の昆布漬けもやってみたが、シンプルイズベスト。水洗いして塩も醤油もいらない。あの3-4㎝の胴体に驚くほどの旨味が詰まっている。酒が進む。日本酒、白ワイン、焼酎、おそらくどのお酒にでも合う上品な味だ。さすが日本海。

富山のホテルで朝飲んだいつものコーヒーがまろやかで美味しくて驚いた。いつも飲んでいる同じ豆なのに、まったく違うコーヒー。同じ日本なのに。自然の恵みに感謝。

カロリーと私

生理が止まったことがある。14歳の時だ。

中学生くらいから20歳まで、女子の身体は本当に痩せない。脂肪を蓄える女性ホルモンが働いているからだと思うが、本当に痩せない。体質もあると思うが、何をしてもとにかく痩せない。痩せるのにもタイミングがあるらしい。でも、痩せたい。女子/女性の心理だ。

当時、バスケ部で相当ハードな運動をしていたにもかかわらず、脂質をなるべく取らない生活をしていた。具体的には忘れてしまったが、脂質もたんぱく質もというか、全体的に食事の量を減らして、痩せた。38㎏。そして生理が止まった。数か月で戻ったが、当然、よろしくない。

割と料理が好きだったことと、ダイエットに興味があったので、私は家庭科のカロリー表が大好きだった。よく眺めていたし、気になる食材は調べていた。今でこそ、食品のパッケージにカロリーを含む栄養表示は当たり前になっているが、当時はそうではなかった。教科書は私のバイブルだった。

そんな事件?とバイブルにより、私の頭の中には大体の食品のカロリーがなんとなく入っている。便利だ。とても。栄養素も入っている。必要な知識だ。

親になって20年、もっと言うと妊娠して21年は栄養バランスやカロリーを意識して毎日を過ごしている。東洋医学やマクロビオティックを読み漁ったこともあったが、私の結論はただ一つ「年齢や体調に応じてバランスよく少しずついろんなものを食べる」。

私は私がかつて「痩せたかった女子」だったし、今も「痩せたい40代」なので、常にカロリーと格闘しながら献立を考えている。「食べることは生きること」と直結しているから、体調やホルモンバランスを崩してまでカロリーコントロールはよろしくない。

永遠に手に入ることのない「太らない体質」に憧れながら。カロリーを気にしない食事を夢見ながら、今日も元気に食べる。

機械音痴

PCもスマホも普通に扱えるし、仕事上使用すべきアプリケーションは必要なのできちんと使える。「必要」だから調べるし、勉強する。必要なことは「できる」ようになる。仕事ならば。

私には専属SE(システムエンジニア)がいる。彼はPCやスマホだけでなく、洗濯機でもルンバでも掛け時計でも、何でも好きだ。ルンバを購入すれば、ルンバの後を付け回し、洗濯機を購入すれば、回る洗濯機をずっと見ている。掛け時計を買えば、30分ごとに湿度と温度のチェックをする。好きなのだ。あらゆる「機械」が。普段の商売道具がPCで、大半の時間を画面と向き合っているのに、休日もあれこれ家のPCのセッティングをするのを全く厭わない。なので、PCやスマホを買い替えても、すべて「うちのSE」にお任せで、わからないことがあれば調べはするが、調べてどうにもならないことは基本「うちのSE」にお任せなのだ。「餅屋は餅屋」だ。

新しい物好きで、家電を追いかけまわしたり、やたら新機能を称賛したりと、鬱陶しいときもあるが、「一家に一台SE」は世間からしたら羨ましい環境だと思う。しかし、我が家にひとつだけ問題が。そう「うちのSE」は単身赴任なのである。

そんなある日だ。急にWi-Fiがつながらなくなった。時々起こる。大抵、再起動すると復活するので試してみたがダメだ。再設定も何度もしたし、VDSL装置とルーターの電源を切って、少し待ってから再起動というのも何度も繰り返したがどうにもならない。これでは仕事にならない。

スマホであれこれ調べてみると、Internet側の認証が上手くいっていないのはわかるが、何が原因でどうすればいいのかわからない。VDSL装置から直接パソコンにつなげても、ネットにはつながらない。夜、彼から連絡があり、ビデオ撮影をしながら、彼の指示のもといろんな画面を開き、彼が設定を確認するが決め手となる原因が見つからない。仕事にならないが、もう夜だしとにかく電源を切って一晩待った。

結局、我が家のSEが認証のPWを再設定してWi-Fiは翌朝復活した。

こういうことがあると、もっとハード面も勉強しなければ!と多少は思うのだが、私がどんなに勉強したところで、所詮この道20年のプロには敵うわけがない。まぁお互い得意分野で頑張ればいいよね。持ちつ持たれつ。これからもよろしくね。

手作りの醍醐味

5年前、長女が中3で次女が小6の時に梅酒を漬けた。実家から毎年もらう青梅は梅シロップにしていたのだが、何故かこの年は梅酒にしようと思った。長女に5年後20歳になったらプレゼントするよ、と私は言い二人の娘のために二瓶に分けて梅酒を漬けた。梅シロップが大好きな長女はとても嬉しそうにしていた。

↓5年前に漬けた梅酒

今年がその5年後だ。なのだが、ちょっと問題があった。梅酒自体は何の問題もないのだが、どの梅酒なのかがわからない。「多分あれだと思う」という曖昧な記憶。2015年に漬けたあと、2017年2018年と漬けて(だと思う)、漬ける梅の産地も群馬の梅だったり、南高梅だったり、糖分も氷砂糖、白砂糖、三温糖とその時の気分と好奇心で漬けたが、どの瓶なのかは定かではない。またたちが悪いことに、諸事情でいくつかを混ぜてしまった記憶もおぼろげにある。

と、よくわからなくなったので、やるべきことは一つに決まっている。そう、飲み比べてみた。見た目に色の差はあるし、梅の大きさにも差があるので、差が出ないことはないだろうとは思いつつ、こんなに歴然と差が出ることに驚いた。

目分量が好き?だし、適当でも美味しいに決まっているだろうと、梅の熟成度も量も砂糖の量も割と適当だったように記憶している。5つの容器に入っている梅酒を少しずつ、同じショットグラスに入れて試飲してみた。

  1. まろやかでコクがあるタイプ
  2. さわやかでさっぱりタイプ
  3. まろやかでコクがあるが酸味を感じるタイプ
  4. 梅の香りと程よい甘さを感じるタイプ
  5. 酸味が強く梅干しのような力強さを感じるタイプ(男梅のキャンディーみたいな)

それぞれに入っている梅の食感も味も当然違った。これは実に面白い。想像以上だ。誕生日が来たら、次女はかわいそうだが、3人で飲み比べをしよう。

5年前は子供たちそれぞれに一瓶ずつ持たせる計画だったが、半分ずつに分けて、5種類を長女に持たせようと思う。そしてさらに3年後に次女が20歳になったときにまた味は変わっているはずなので、今度は4人で飲み比べだ。

特に深く考えずに「5年後楽しみだね」と言って漬けただけだが、予想を遥かに上回る面白いイベントになりそうだ。これが手作りの醍醐味だろう。今年は梅シロップと梅漬け(梅干しの干さないタイプ)しか作らなかったので、来年は梅酒も漬けよう。

それにしても、ラベルくらい貼ればいいのに。変なところでずぼらだ。これでは、同じ味を再現できない。

記憶力も衰えている今日この頃。深く反省した。

現在の梅酒たち

大海原

浮き輪は必要ない。泳げる。普通に。多分短めのトライアスロンなら出られるくらいには泳げる。と思う。

ある年末年始に、新婚旅行でも有名な国の島へ行った。我が家は「日本人があまり行かないところ」へ旅行に行くのが好きだ。滞在中、その島も日本人は我が家以外1組のご夫婦がいただけだった。

島自体が楽園なので、海辺でシュノーケリングするだけでウミガメにも会えるし、十二分に満喫できるのだが、観光地なのでお決まりのいろんなツアーがある。その中で目に留まったのが「マンタツアー」である。沖に出てマンタを見るというものだ。免責事項に「万が一マンタが見られなくても返金はしない」と書かれている。ツアーの代金がいくらだったか全く覚えていないが、かなりいい値段だったのは間違いなく、4人分の代金となれば結構なもの。まぁでもマンタなんてこういうところに来なければ見られないし、申し込むことにした。

船に乗って大海原へと出発。15人くらいの人たちがいたと思う。日本人は私たちだけだった。ドンドンと沖へ向かっていく間、船長はマンタ探査機らしきものと、無線とでなにやら他の船とも交信しているようだった。その日は前夜雨が降ったせいか波が少し高く、マンタに出会うに良好なコンディションではないようだった。船長は我々に再確認するように、例の「免責事項」を口にしつつ、必死にマンタを探してくれていた。絶対に見せようという気迫が感じられた。

幸運なことに。マンタはいた。船の上からも見える。想像より大きい。自由で品がある。優雅だ。船長からシュノーケルセットが手渡された。私はシュノーケルセットを使ったことがなかったので、大丈夫かと少し不安になり、夫にそう伝えた。夫は私に使い方を説明し、使った方が良いと勧めた。夫の説明は驚くほど簡単だったので、不安ではあったが簡単に使えるのだろうなと思った。船長にライフジャケットも渡されたが、ライフジャケットを着ると潜れなくなるので、子供たちだけライフジャケットを着て、大人二人はシュノーケルセットだけを付けた。マンタには触れないこと、追いかけないことなど注意事項を告げられ、海に入ってマンタを見るよう順番に船の淵に座らせられた。次の瞬間、船の淵に座っている客を海に突き落とした。マンタが近づいてくるタイミングで。背中をドンと押して突き落とすのだ。船長が。海に入るタイミングはもはや船長しかわからないので、心の準備もままならないうちに、我々は海に落とされるのだ。背中を触るのではない。押すのだ。ふいにドボーンと。船長の絶大なる使命感の下で、もはやマンタとのデートは我々の義務と化した。「権利」ではなく、「義務」である。

我々の番が来た。夫は次女を背中に、長女を左手に、首から水中カメラを提げて、突き落とされることなく悠々と入水した。私もそれに続いた。しばらくするとマンタが現れ、我々は並行してマンタと一緒に泳いでいた。が、その日は波が少し高かった。何の前触れもなく私の胃の中には大量の海水が入ってきた。シュノーケルから入ってくるのだ。夫から聞いた使い方を試してみるが、何度も大量の海水をゴクゴクと飲むだけである。海水をビールのごとく飲んだのは初めてだった。夫たちは優雅に次のマンタとともに私の前を通過して行き、やがて私の視界から消えていった。

溺れる。と思った。人生で初めて感じた「生命の危機」。見渡せば、船は遥か遠く向こうにあり、自力で泳げる距離には思えないし、そもそも潮に流されているではないか。このままではマンタではなく鮫に遭遇してしまう。船と私の間には同じツアーの香港人中年男性が溺れかけている。なんだこのツアーは。私はシュノーケルを取り外し、心の中で「何が簡単だよ」と夫を呪いながら、船に向かって自力で泳いだ。しばらくすると船がおじさんに向かって動き始めた。おじさんはあのオレンジ色の浮き輪を投げてもらい九死に一生を得た。私は何とか自力で船にたどり着き夫に言った。「嘘つき」と。夫の言葉を簡単に信じた自分を後悔した。

というのが、私の記憶なのだが、夫曰く、夫は子供たちを船に戻した後、遠くで遭難しかけている私を助けに来たらしい。全く記憶にない。記憶にあるのはシンプルすぎるシュノーケルの説明だけだ。思い返せば、ヤツは常に言葉が足りない。そもそも口数が少ないのだが、常々言葉も足りないのである。楽園効果ですっかり失念していた。

信じるな 異国のツアーと 我が夫

手紙 with COVID19

はっきりと覚えている。いつから手書きの文をほとんど書かなくなったか。2005年の年賀状を最後に海外に住んでからだ。なので、この15年年賀状は出していない。

元々私は結構な筆まめで、年賀状はもちろんのこと暑中見舞いを親しい友人に送っていたほどだ。小中学校は交換日記を友達とやっていたし、部活ノートなんていうのもやったな。あとは、授業中に筆談もしたし、便箋を♡の形やシャツの形に折って、手紙のやり取りとか。女性なら誰でもこんな思い出があるだろう。大学で独り暮らしを始めてからは、友人に結構小まめに手紙を送った。まだ携帯も普及していなく、e-mailは学校でしか使っていなかった時代だ。

結婚して、子供が生まれて、e-mailが普及して、手書きで書くことがどんどんと減っていった。さすがに一言添えるお礼状くらいは手書きで書いているが、そもそも長文を書く機会が激減した。それでもメールでやり取りしていた頃は「文章」を書くことは多かった。自分の書いた内容を推敲して、人様に送信していた。ところが今はどうだろう。非常に便利だと思って使っているのだけれども、今のプライベートのやり取りは、短い文だったり一言だったり、スタンプで事を済ませている。プライベートで文章らしい文を書くことはめったになくなっている。淋しいと思う時もあるが、やはり便利であるのは間違いない。

もう6・7年そんな「一言」で済むやり取りをしている中、今年に入って長文の手紙を3通書いた。GWに大学時代の友人たちの肉親が亡くなられたからだ。この特殊な環境下で告別式に出ることも、会ってお悔やみを言うこともできなかったので、お供え物の品と一緒に手紙を添えた。

相手の気持ちや人柄を想像して、便箋とペンを選び、ワードで下書きをして何度も読み返し推敲して、手紙を書いた。久しぶりに書くと字が下手になっていてがっかりしたけれども、お悔やみを伝える手段として「手紙」が最適だと思って書いた。

ずっと忘れていた。未だに沢山の便箋と封筒が我が家にあるのだが、相手や手紙の内容によってその時々の気持ちで便箋を選んでいた。内容で文字まで変えていたっけ。文章を書き始める前から送る相手に思いを馳せ、言葉を選び、自分の考えや気持ちが伝わることを願って書いていた。久しぶりにその感覚を思い出した。

そういえば、高校の時、親しい男友達に頼まれて、男子校の子と文通をしていたことがあった。簡単にSNSでつながる今の時代ではありえないのだが、結構長く続いていた。さすがに内容は覚えていないけれども。彼は大学卒業後パイロットになったらしい。どうしているかな、山田くん。久しぶりに思い出した。

卒業

8月が終わる。いよいよこの日が来てしまった。

楽しいときも辛いときも、嬉しいときも悲しいときも、君は常にそばにいてくれた。30年来の大親友、君とお別れしなければならないなんて。そんな日が来るなんて考えたこともなかった。たとえこの先私が入院しても、君は必ずこっそり見舞いに来てくれるとさえ信じていたのに。別れが来るなんて。

君との語りつくせぬほどの思い出。「若すぎる」と君との付き合いを揶揄されたこともあった。でも、世界中のどこにいても、君はいつも最高の笑顔で私を迎え、新しい顔を見せて私を楽しませてくれた。君と仲良くなりすぎると苦しむことがわかっていても、君がほほ笑んでくれるから、君と夜な夜な語り明かした。

私の身体がもう少し大きかったら。もう少し強かったら。どれも自分でどうにかできることではないので仕方がないが、何かこの別れを回避できる方法があるのではとつい思ってしまう。

仕事が忙しいときも、子育てが大変なときも、いつだって「がんばったね」「大丈夫だよ」とご褒美をくれた。一日の終わりに君が出迎えてくれるだけで私は幸せだった。とてもとても。夏の暑いときはもちろん、真冬でも君がいなければ一日は終わらないし、夜は始まらない。私はいつも君を頼りにしていた。

私に寄生するこの浮き輪の退治に成功したら、また会おう。心身ともにスッキリさせて君に会いに行くと誓うよ。君の黄金色に輝く笑顔に会いに行くから。必ず。

祈願:スッキリと 浮き輪よさらば 永遠に

と、いろんな覚悟をしてこれを書いたのが8月初旬。実際の1か月の様子と体形の変化は後日投稿予定

この記事「浮き輪と私」を先に読んでもらえると嬉しいです

ワンオペ

20年前、ワンオペという言葉も、マタニティマークというものもなかった。「マタニティマーク」はとてもいいと思う。通勤時、このマークを見かけると多少遠くても席を譲るようにしている。理由は単純。自分が妊娠中、満員電車が死ぬほど辛かったからだ。第二子妊娠中7週目で卵巣茎捻転を起こし、腹腔鏡の手術を受け入院し、母子ともに無事だったのだが、退院後の弱った妊婦の身体に通勤ラッシュは殺人的で、毎朝会社に着くとトイレに駆け込んでいた。妊娠初期の手術だったため、切迫流産になり易いと医者から言われていたので、本当に苦しかった。妊娠初期はお腹が出るわけでもなく、流産しやすいので、「マタニティマーク」は声をかけやすくていい。

「ワンオペ」とは上手いこと言うものだな、と最初に聞いたときに思った。

うちの夫は基本的に何でもできる人だ。家事、炊事は大抵「丸い」仕上がりだが、普通にできる。料理に関しては、フキとか里芋とか私がめんどうくさがる下処理も積極的にやるし、裁縫は裾が擦れたチノパンを切って、短パンにして、切った布で子供たちの上履き入れを作ったことがあるほどだ。当然、子供のこともオムツ替えも入浴も離乳食づくりも、なんでもやる。「時間があれば」だ。

そう「時間があれば」なのだ。

長女が生まれて保育園に通っていたころ、夫の月の残業時間は200時間を超えていた。終電はおろか、始発で帰ってきて、少しだけ仮眠して出社し、夜勤も休日出勤もあった。次女が生まれたころは単身赴任だった。物理的に子育てをする時間が限られていた。それでも深夜に帰ってきて、洗濯物を干したり、翌日の米を研いだり、私のやり残した家事を夜中にやるような人であった。今もそうである。

新卒2年目の夫に週1で良いから、娘のお迎えに行ってくれないかと頼んだことがあった。私に仕事で大きなチャンスがあって、その仕事を引き受けたいからと頼んだ。夫は「無理」とだけ言った。なぜ私だけが産休、育休を取って、職場に復帰しても、定時に上がらなければならないのか。努力してチャンスが巡ってきても、そのチャンスを掴むことすらできない。同じ大学を出て、同じ正社員で、私の方が4年も先に社会人になって十二分に稼ぎ、男性と同じだけの仕事をしてきたのに、なぜ女性だけが変わらなければならないのか。育短もフレックスタイムも始まったばかりの20年前。男性の育児休暇なんてほど遠い時代。新卒2年目で、「週1日は定時で帰らせてください」だなんて言えないのもよくわかる。夫だけが悪いわけではなく、会社というより、日本社会そのものの仕組みが悪いからだと、社会や会社を牛耳っているのが、家に帰ればアイロンのかかったワイシャツに暖かいお風呂もご飯も用意されている「男性」だからということも、わかっている。わかっていても、それでも「女」というだけで、出産と育児への負担がのしかかるのが悔しかった。

「結局、家事も育児も他人に任せたくないのはY子(私)じゃん」と、保育園のお迎えのことで夫と揉めていたときに、夫に言われた言葉だ。

当時の勤め先で、違う部署に40代の第一子が小学生の3人子供がいる女性管理職がいた。彼女は「親とベビーシッターをお願いして仕事を回している」と言っていた。ベビーシッターは高額なので先立つものも必要なのだが、金銭的な問題はさて置き、それを聞いて私は確かに完全には「うらやましい」とは思えなかったのである。人の価値観は様々だしいろんな子育ての仕方があるので、他人を批判しているわけではなく、自分の考え方の問題なのだが、保育園と夫以外の人に日常的に子育てを任せることにとてつもなく抵抗があった。そう、夫の言う通りなのだ。

第二子が8か月くらいの時に夫が単身赴任となり、完全なるワンオペがスタート。職場復帰しクタクタな私のそばにいたのは、愚図る妹をあやす長女。妹にご飯を食べさせる長女。洗濯物を畳む長女。長女がいたから成り立った。そして、友人たち。長女の保育園時代の友人がいたから仕事と育児と家事ができた。間違いなく彼女たちのおかげだ。土日に一緒に子供たちを遊ばせてくれるのはもちろんのこと、金曜日のお泊りも良くやっていた。そして、一番の思い出は、次女が熱を出し、どうしても外せない仕事がある私の代わりに、第二子育児休暇中の友人が数時間子連れでうちに来て次女を看てくれたのである。

気付けば、夫は子供が生まれて20年のうち通算約9年単身赴任をしている。長女が高校生になった4年前からワンオペでもだいぶ楽になり(学校関係以外は)、子供たちが高校生と大学生になった去年からは完全に楽になった。が、小さいときは本当に大変だった。

ワンオペになる要因は大きく3つに分けられるのではないだろうか。

  1. 社会的(会社的)問題
  2. 本人の自覚の問題:家事育児を「手伝っている」と思っている時点で間違っている
  3. 上記両方の問題

大きなお世話だが、このワンオペ問題は「モラハラ問題」に発展する可能性があると思う。「俺はお前よりも大変な仕事をしている」「俺はお前より稼いでいる」と。そうなる前に、何度喧嘩してでも、話し合える関係作りが出来ると良いと思う。諦めることに慣れてしまう前に。

9年くらい前に、大学の同期が、学生の頃からの夢を叶えたコンセプトの会社を立ち上げたので、そのお祝いメールを送ったことがあった。彼の返信の中に、「子育てほど大変な仕事はない」と異国の地で子育てをしている私を称える言葉があった。

「世の中捨てたもんじゃない」と思いたい

刷り込み

何であんなにこだわっていたのだろう。と、過去を振り返って頑張りすぎたり、固執しすぎたりした経験って誰しもあるのではないか。

ある南国でランニングにはまっていたことがあった。大会の数が多いからか、参加費が割と安いからか、順調に大会に出場し、距離とタイムを伸ばし、表彰され、あんなに大嫌いだったランニングが楽しくなっていった。ハーフマラソンに参加するようになり、良いタイムが出るようになった。フルマラソン4時間を切るのが目標だったので、ハーフマラソンで1時間30分代のタイムに満足していた。だが、私は知っていた。

20歳のとき、当時円高でUS$1=90円くらいだったこともあり、大学の仲間6人でホノルルマラソンに行くことになった。大学生協で申し込める企画で、2週間ほどハワイに滞在し、航空券、宿泊費、参加費などを含めてとてつもなく安かったことを覚えている。その魅力と好奇心とノリで、ついついホノルルマラソンに出ることになってしまったのだ。

「ワカサとバカサは紙一重」とはまさにこのこと、スポーツは大好きだがランニングが大嫌いな私は現地でランニンググッズを買い揃え、大会までの数日間“にわかランナー”と化し、一夜漬けのランニングに励んだ。

大会当日、薄暗いアラモアナビーチ公園からダイアモンドヘッド方向を目指した。意外と走れた。苦しいなぁと思いつつ、天気も風景も最高だし、路上の応援も華やかで、異国情緒もあって悪くない。走るの気持ちいいじゃん!くらいに思い、予想に反して結構楽しんでいる自分がいた。ダイアモンドヘッドから見下ろす海の美しさや、全身を通り過ぎていく海風を心地よく感じながら、ダイアモンドヘッドを通過して折り返し地点を過ぎ、数キロ走った後だ。足が重い。呼吸は問題ないのだが、足と脳と気持ちがつながっていない。走りたいのに走れない。往路で美しかったダイアモンドヘッドからの光景が夢だったかごとく、もう景色なんかどうでもいい。この時私は知った。フルマラソンは30㎞からが苦しいことを。

その過去の経験がある私は、フルマラソンに向けてペース配分を試してみようと、30㎞マラソンという珍しい大会に出場することにした。夫は20㎞、10歳7歳の子供たちは10㎞に参加。会場近くの宿に前泊し、会場で大会エントリーを済ませ、ホテル付近の川沿いを探索し、いつも通り早目の夕食を食べて、早朝5時のスタートに備えることにした。そう、すべてが「いつも通り」に行くはずだった。

深夜である。気持ちが悪い。おなかが痛い。私はトイレから動けなくなった。ホテルで食べた川魚の目の周りが原因に違いない。私しか食べていないのが不幸中の幸い。激しい嘔吐と下痢が4時間ほど続いた。私は完全に干からびていたが、ホテル出発30分前にはどうにかトイレからは解放された。夫は何度も「無理だから棄権した方がいい」と言った。何度も。私はその「棄権」という言葉が嫌だった。ありえない。棄権なんて。出発までの間、4時間で失った水分を少しずつゆっくりと胃腸を刺激しないように体内に取り入れた。時々痛む胃腸を労わりつつ、このくらいだったら大丈夫だと、根拠のない「大丈夫」をもってして、正論である夫の「脱水症状になりかけているし、睡眠不足だからやめた方がいい」という言葉に耳を傾けず、家族4人でスタート地点へと向かった。スタート直前まで「やめたら」と言う夫に、またもや馬鹿の一つ覚えである「大丈夫」を言い残しスタートした。

最初の4㎞くらいまでは“気合”で何とかいつも通りのペースで走った。でも距離を増すごとに痛む回数がどんどんと増え、どんどんと痛みも強くなっていった。ペースはどんどんと落ち、今まで味わったことのない、どんどんと抜かされるという状況になり、うるさいくらいの「どんどんと」という言葉だけが増えていき、悲しくなった。だが、悲しさよりももはや痛みの方が強かった。給水場所に置いてある毒々しい色のゲータレードを飲みながら、前へ前へと進んだ。もはや何が自分を突き動かしているのかもわからないし、そもそも何で夫の言うことを聞かなかったのか、なんでそんなに棄権したくなかったのか。

私を通り過ぎていく参加者たちは本当に優しかった。びっくりするくらい優しかった。いつも前の方で走ってきた私は、前だけを見てタイムラップだけを気にしてきたが、お腹を押さえながら歩く私にみんな優しかった。チョコレートやバナナをくれようとしたり、足の塗り薬をくれようとしたり。「大丈夫?」と何度も何人もの人たちに声をかけてもらった。全員と言って過言ではないくらいの人たちが声をかけてくれた。とても良い国だ。「完走したいな。。。」心の底から思った。「完走したい」だなんて思ったことなかった。するのが当たり前だったから。良いタイムを出すことしか考えていなかったから。

私の気持ちとは裏腹に、「どんどんと」人は私の脇を通り過ぎていき、折り返しを通過することはできたが17㎞地点で私は最後尾となった。あと13㎞。ペースは落ちていく一方、痛みは増す一方。このままでは運営側に迷惑をかける。私はリタイアを申し出た。屈辱的だった。そして私は異国の救急車でゴール地点まで運ばれた。迷惑をかけた。悔しくて、情けなくて涙が出た。

普段超絶健康な私であるにもかかわらず、その後4日ほど高熱を出して寝込んだ。かろうじて水分が取れるくらいで、内臓は弱り切っていた。自分の身体に相当無理をさせたらしい。病院へ行こうという夫にこれまた意味不明な「大丈夫」を繰り返し、ひたすら寝て身体の回復を待った。今思えば、病院で点滴を打ってもらったら一発だったかもしれないのに。何が私をそうさせているのだか。

大会直後から二日ほど、気づけば私と同様に伸びている子が一匹いた。眠り続けている。次女だ。7歳の少女に山の10㎞は辛かったらしい。まぁ若いから大丈夫だろう。よく走ったね。というか、走る以外に選択しなかったしね。その大会で、長女は10歳の部門で表彰され賞状をもらった。ほら、日ごろの差が出ちゃったね、と体力を奪われていても鬼母は健在であった。

何が私をそうさせているのか。何かに取り憑かれたように、一度始めたことは完結させなければならないと思い込み、常にベストパフォーマンスをすべきだと自分を追い込む。できないなら、できないことを証明しなければならない。だから倒れるまでやる。それしか方法が浮かばないから。

この刷り込みは「部活」だと思う。真夏の12時に校庭3㎞ランニングから始まる7・8時間の練習。夏の体育館締め切り1時間ダッシュ。水を飲むことも許されず、吐いてもまた走らされ、取れるまでボールを投げつけられる。体調が悪くても、学校を休んでいなければ部活は休めず、文字通り「倒れる」ことでしか体調不良を証明できない。そんな軍隊式の若かりし頃の刷り込みが染みついているのだ。恐るべき第二次ベビーブーム世代義務教育。この負の連鎖が続かないことを願って。

追い込むな 追い詰めるな 自分を守るのは 自分だけ

ランニングと私

ある東南アジアの国に住んでいたとき、毎日走るようになった。スポーツは好きなのだが、ただ走るって「何が楽しいの?」と本当に嫌いだったのだが、走るようになった。

最初は全く走れないし、筋肉痛になるし、とにかく辛かった。1周800mくらいの公園を初日は2周走るのが精一杯だった。二日目からは筋肉痛と闘いながら、1周くらいずつ増やしたり、そのままだったりしながら、仕方がないから毎日とにかく走った。ストレッチもした。全然楽しくなかった。なんで大嫌いなランニングを毎日しているのかわからない。ただ始めてしまったから続けるしかなかった。何のために?と思いながら。

1週間を超えると少し身体が楽になった。距離も伸びた。半月過ぎると身体に変化が。二の腕とか、お尻の下の太ももの辺りとか余分なものが落ちてきた。距離も段々と伸びてきて、毎日11-12週走るようになった。

続けていくうちに、週末になると猛烈に「肉」が食べたくなる。しかも「血の滴る肉」が食べたい。小さい頃から肉よりも魚が好きで、魚も白身(鱈、鰆、鯛、平目、貝類、甲殻類など)が好きだし、肉なら鶏のささみが好きだ。でも走っている私が食べたいのは「血の滴る」系なのだ。牛肉・手羽先などはもちろん、鶏のハツ・砂肝・レバーといった内蔵を。

そう、運動すると体内に酸素を多く取り入れようする。その酸素を体中に運んでくれるのが「血液」なのである。だから鉄分の多い内臓系の肉を「私」ではなく、私の「筋肉」が欲するのだ。

身体は正直である。

10年以上前にある作家のエッセイを読んだ。その作者はダイエット中だが、筆を進めるために禁断のチョコレートを摂取し、食べるや否や脳が活発に動き始めるのだ、とチョコレートパワーを大絶賛していた。甘いものにさほど興味がないからか、それほど頭を使った経験がない?からか、私はその時「ふーん、本当にそうか?」と半信半疑だった。

それから時を経て、塾の講師の仕事をしていたときである。夏・冬・春になると恐怖の1日10時間授業を何日か連続でやる。もう何年生の何の科目をやっているのかも朦朧としてくる。そう「チョコレート」の出番だ。「私」ではない。私の「脳」が欲するのだ。そして脳が回り始める。脳が快活に動き出すのだ。

身体は正直である。だから今夜もせっせとおいしくビールを飲む。「私」ではない。私の「身体」が欲するのだ。エネルギーチャーーージ。

走れ 働け ビールのために

浮き輪と私

人生の岐路に立たされている。究極の選択を迫られている。このまま一生「浮き輪」とともに生きていくか。30年来の友を捨てるか。

歳を重ねていくことは楽しい。経験値も上がるし、新しい出会いもあるし、知識も増える。と同時に、悲しい。とても悲しい。何が悲しいって、代謝が落ちること。サッカー仲間の友人は言った。「今の生活のまま、フィジカルだけ大学生に戻りたい」。そりゃそうだ。究極の理想だ。仕事も家族もこのままで、全身がバネのような身体に戻してほしい。

46歳の誕生日が過ぎたあたりから、お腹周りの肉がうっすらつまめるようになってきた。気にしつつも、冬だから、毎年のことだから、きっと今年も気温の上昇とともになくなっていくだろうからと、特に大きく生活は変えないでいき、自然消滅するのを待った。

私の普段の生活は割とまともである。基本的に飲み会以外の外食はせず、バランスの良い食生活、ランニング、サッカー、十分な睡眠。移動は公共機関か自転車。なるべく階段。そう、割と健康への意識が高い系女子なのである。例年と違うところがあるとしたら、在宅になって移動が少ないことであるが、その分ランニングや軽いストレッチや筋トレをしているので、さほど大きく生活習慣が変わったとは思えない。しかも、4月から飲み会がないので、外食はほぼ無し。なのに、春が来ても夏が来ても私の浮き輪はなくなるどころか私に寄生し始めている。何をしても取れないのだ。

私は好んで、割と体のラインが出る服を着てきた。体形を維持するために。意識的に。独り暮らしをしている長女が帰ってきて、何やら買いたいものがあるからと珍しく一緒にショッピングに行くことになった。いつもの服を着てもしっくりこない。娘二人がかりで服選びをしてくれるのだが、決定的に何かがおかしい。そして二人が口を揃えて言った。まさに「禁句」を。「ママ太ったね。というか、お腹出ている」…。そう、お腹だけ。わかっている。毎日触っている。

こういわれるのが嫌で、数日前の8月初めからYou tube先生と6分間腹筋トレーニングも始めた。継続中だ。だが、私は岐路に立たされている。2週間して結果が出なかったら、30年来の友との別れを選ぶか、私に寄生する浮き輪と共存するか。その選択を。

私は知っている。友との別れを選べば、真夏にランニングや筋トレなんかしなくても簡単に浮き輪とおさらばできることを。やったことがないので断定はできないが、おそらく覿面に効果が出るであろう。そう、30年来の大親友である「黄金の泡」との別れを選べば。

20年程度しか生きていない娘たちはいとも簡単に言う。さっさと禁酒しなよと。大親友との別れを薦める薄情な子供たちはさらに追い打ちをかけてくる。「太ったママなんて嫌だ」と。

まだある。You tube先生が私の運命を決める日まで。10日ある。

まだ粘れ 負けるな私 走るのだ

料理と私

料理は嫌いではない。多分。好きな方だと思う。多分。

母が料理上手な人だったことと、「おしん」のように育てられたから、料理の基本は母から教わり、年末にはおせち料理も手伝わされた。黒豆、栗きんとん、二色卵、田作り、なます、お煮しめ等々。何故か林檎のコンポートもあったな(土井勝さんの本にあったから?)。その中でも、私の十八番は「昆布巻き」。渋い。子供の頃から甘いものがあまり好きではなかった私は、母愛用の土井勝さんのレシピより砂糖の量を減らしていた。だって「食べちゃえばいい」早目においしく。

小学生低学年の頃は、玉ねぎを剥くのが本当に嫌で、母からの「玉ねぎを持ってきて~」は涙なくしては語れない呪いの言葉だった。だが知っていた。玉ねぎは確実に美味なるものに変身していく。母の手によって。

料理をした一番古い記憶は、おそらく小学生になる前。母が体調を崩して、姉と一緒に、おにぎりと何か一品を作った。ものすごく不格好だったのに、母はとても喜んでくれた。

料理をしはじめる一番のきっかけは、弁当の卵焼きにケチをつけたことだ。甘いのである。母は私に「だったら自分で作りなさい」と言った。もっともだ。小学3年生8歳の時だ。

自分が親になるまでわからなかったけれども、包丁や火を子供に扱わせるのって、本当に難しい。台所汚くなるし。自分がやった方が早いし。

味は主観的な感覚で、私のレシピは甘さ控えめである。自分の塩梅を探すのも楽しいと思う。

たどり着け 成功と失敗の その先に