
ちょうど通勤通学の時間だった。その通り沿いにある学校の中高生、近くの小学生、駅に向かう社会人など、多くの人も車も行き来する駅へと続く道を走っていた。
ランニングする私の前方には小学校2年生くらいの女の子が3人、おしゃべりをしながら歩いていた。歩道沿いの進行方向左手にあるマンションから原付バイクに乗る男性が出てきた。男性は止まって、小学生が先に通り過ぎるのを待った。
しかし、その次の瞬間女の子たちは立ち止まり、バイクとは2mくらいの距離をしっかりと置いて、3人とも手を左から右に振り、バイクに先に行くように合図し全く動かない。おしゃべりもせず3人で同じ動作をしている。男性は左右確認し、先に車道へと出て行った。
私はその「大人な」7・8歳くらいの少女たちを見てとても感心したと同時に、深く反省した。
自他ともに認める「せっかち」である。歩いている前方の信号が青だと走る。点滅し始めると猛ダッシュする。連れがいても「走るよ」と形ばかりの声をかけて、走り出す。もう20年前後この妻・母と一緒にいる夫や子供たちはもはやもうついてこないが、同僚や友達はびっくりする。走らないのはよほど具合悪いときだが、具合が悪いことは滅多にない。交差点は走るものだ。
あの少女たちのような心の余裕が微塵もない。時間の余裕ではなく、「心の」なのだろう。別に急いでいるわけでもないのだが、待つのが好きではない。特に大都会のスクランブル交差点はタイミングが悪いとやたら待つ。その待つ時間がもったいないように感じてしまうのだ。そのうち、家の近所だろうが、田舎だろうが、「青信号=走る」という方程式が脳と身体に染みついてしまったのだ。
そうやって時間を切り詰めて、走りに走っていろんなことをやりくりして来たのも事実だが、もう保育園や学校にお迎えに行く必要も、急いでご飯を作る必要もない。これからはもっと心にゆとりを持って、「明日やればいいか」くらいゆったり構えて生きて行けばいい。などと考えていると、目の前の信号が点滅し始めたので、右折の車に頭を下げ、猛ダッシュで交差点を渡り、今日もまた元気にランニングをした。私が大人になれる日は遠い。
